解説:北館尚子(シニア・コンサルタント)
一橋大学卒業、ハーバード大学大学院修了。元UNESCO(国連教育科学文化機関)職員
前回の記事では、過去30年間の「人間開発」の歩みについて振り返りましたが、今回の記事では新型コロナウイルスの人間開発への影響について報告します。
新型コロナウイルスがもたらす人間開発の危機
新型コロナウイルス・パンデミック危機の影響を理解するためには、今回の危機がこれまで人類が経験してきた危機とどう違うのか、という特徴を押さえておくことが重要です。
UNDPが5月20日に発表した新型コロナウイルスが人間開発に及ぼす影響についての報告書(以下、「UNDP報告書」)は、この点についての重要な指摘をしています。今回の危機が特異である理由は、未知の新型ウイルスの蔓延という保健衛生上の緊急事態そのものよりも、その緊急事態に対応するために世界中で取られた「措置」の規模とスピードによる影響が前例がない程大きいということです。
参照:UNDP|COVID-19 and Human Development: Assessing the Crisis, Envisioning the Recovery
過去数ヶ月の間に、パンデミック対策として世界中のほとんどの国が一斉に実施した、学校・職場閉鎖、営業活動停止、移動・入国規制、防疫隔離措置などの様々な感染拡大防止措置の影響によって、世界中の経済社会システム全体の機能が急激で広範囲に及ぶ停滞を強いられています。ACAPS(NGOのコンソーシアムによる非営利プロジェクト)の集計によれば、4月中旬の時点で、世界の約78億人の総人口のうち、70億人以上が183カ国での移動規制・防疫隔離等の何らかの行動制限を受けていました。同じく4月中旬の時点で、147カ国での学校一斉閉鎖措置により、世界の総就学人口の約86%に当たる14億人以上の生徒たちが学校に通えない状況となりました。
参照:ACAPS | #COVID19 Government Measures Dataset
世界中の人々の活動がこれほど大規模かつ短期間のうちに制限されるという状況は、まさに未曾有の事態に他なりません。人々の活動の停滞による経済的な影響については、「新型コロナウイルスとSDG4達成: 教育への投資は?(その2)」の記事でお伝えした通り、世界的な景気後退、雇用・所得の喪失、貿易額の縮小、海外送金の減少など、多くの経済指標の急激な悪化がすでに報告されています。このパンデミック危機は人々の健康に対する脅威であると同時に、経済及び社会生活全体を脅かす人間開発の危機として進行しているのです。
学校閉鎖の影響による人間開発の後退
UNDP報告書は、パンデミックの影響を勘案した上で調整した人間開発指数の試算を行い、主に大規模な学校閉鎖の影響によって、2020年の人間開発指数はそれ以前の過去6年間の増加分に相当する値が低下するという予測を示しました。人間開発指数の後退が見込まれるのは、1990年に人間開発指数の測定を開始して以来初めてのことです。
上記の人間開発指数の試算では、パンデミックによる学校閉鎖措置の影響に関して、家庭におけるインターネットへのアクセスの有無を考慮に入れて、家庭においてインターネットへのアクセスが有る場合は、休校中も家庭である程度の学習の継続が可能であるという推定に基づいて、実質的な非就学率(学齢期の子供のうち学校に就学していない割合)を算出しています。
この試算によれば、パンデミックの影響による初等教育における実質非就学率は、人間開発水準の低い国では86%(パンデミック前と比較して59%の上昇)、人間開発水準が中程度の国では74%(同、67%の上昇)、人間開発水準の高い国では47%(同、41%の上昇)、人間開発水準の非常に高い国でも20%(同、19%の上昇)という急激な上昇を示しています。
学校閉鎖期間が本来の年間登校日数の4分の1程度で終了して学校が再開されたと仮定しても、世界全体で見た2020年の年間ベースでの初等教育の実質非就学率は20%に達する見込みです。この数値は1985年の非就学率に相当します。それは、年々改善されてきた世界の就学状況が、35年分後退してしまうことを意味するのです。
次回の記事では、新型コロナウイルスが人間開発の後退に及ぼす影響を最小限に食い止めるための提言について報告します。