解説:北館尚子(シニア・コンサルタント)
一橋大学卒業、ハーバード大学大学院修了。元UNESCO(国連教育科学文化機関)職員
新型コロナウイルスと「万人のための教育」(その3)
前回の記事投稿から(8月17日のパデコウェビナー開催準備等のため)間が空いてしまい申し訳ありませんでした。今回の記事では、新型コロナウイルス危機によって改めて問い直される「万人のための教育」の意義について、最新のUNESCOの「グローバル・エデュケーション・モニタリング・レポート」(以下、「GEMレポート」)の内容を基に考察してみたいと思います。
参照:UNESCO|Global Education Monitoring Report: 2020 Inclusion
新型コロナウイルス危機とインクルージョン
GEMレポートの今年のテーマは「インクルージョンと教育 – すべての人とは誰一人取り残さないこと」です。おそらく、新型コロナウイルス危機が起こる前であれば、インクルージョン(包摂)やインクルーシブ教育は、「少数の」「特別な」状況に置かれている特定の人々を主な対象とする取り組みであるという認識が一般的であったと思います。
ところが、新型コロナウイルス危機による休校措置により、4月のピーク時点で、全世界の就学人口の90%以上が学校での学習の中断を余儀なくされ、物理的に教育へのアクセスから疎外・排除されるという、歴史上例を見ない経験を世界中の家庭が共有することとなりました。そして「すべての人のための教育」、つまり「誰一人取り残さないインクルーシブ教育」を、教育のそもそもの仕組みとして構築することの重要性が、これほど緊急性を持って広く認識された機会はなかったといえます。
参照:UNESCO | Global monitoring of school closures caused by COVID-19
インクルーシブ教育とは、決して「特定の人々」を対象にした特別な取り組みではなく、どんな境遇のどんな属性の人でも、等しくアクセスできる仕組みでなければならず、言い換えれば、「教育」そのものがインクルージョンという理念を中心に据えた仕組みでなければ、制度としてもそもそも成り立たないということを、図らずも新型コロナウイルス危機が突きつけたと言えるかもしれません。
教育から排除される要因
インクルーシブ教育の実現のためには、まず教育から排除される要因を把握する必要があります。GEMレポートの最新の集計で、世界全体の学齢期の子ども・若者の人口の17%に当たる2億5千8百万人が学校に通っていませんでした。これだけ多くの子ども・若者が学校教育にアクセスできていない要因は多様です。
障がいの有無、経済的困窮、性別/性的指向/性自認、国籍/居住国内の立場(移民・国内避難民・難民など)、民族・宗教・言語的少数グループ・先住民族、居住地(遠隔地など)、人種・カースト、身体的特徴(肥満、左利きなど)、持病(喘息、アレルギーなど)、家族構成(孤児など)など、教育サービスから疎外される要因は実に多岐に渡り、複数の属性や状況が複合的に影響している場合がほとんどです。
一方、近年インクルーシブ教育普及の必要性の認識は高まっているものの、多くの国ではインクルーシブ教育に関する法律・規定において「包摂」しようとする対象が、特定のグループに限定されていることがGEMレポートで指摘されています。79%の国では障がいをもつ人、60%が少数言語の話者、50%が性別、49%が少数民族/先住民族を包摂の対象としており、あらゆる属性や状況を網羅して包摂することを明示している国はわずか10%しかありませんでした。
国際比較が可能なデータベースによるモニタリング
これらの多様な要因に対して包括的に対処するためには、先ず現状や進捗を把握するための、国際比較が可能な標準化したデータの収集とモニタリングが不可欠です。そのためUNESCOは、GEMレポートを補完するツールとして、新しく二つのデータベースを立ち上げています。
一つ目のPEER(Profiles Enhancing Education Reviews)は各国の教育に関する法制度及び政策に関するデータ(既にインクルージョンに関する政策、取り組みの現状の国別データが公開されています。)、二つ目のSCOPE(Scoping Progress in Education)は各国のSDG4の目標達成状況をモニタリングするためのデータを集計しており、国別・地域別のデータを参照することができます。
参照:PEER | Profiles Enhancing Education Reviews
参照:SCOPE | Scoping Progress in Education
また、UNESCOはGEMレポートにもデータが引用されているWIDE(World Inequality Database on Education)という、教育における格差の状況をモニタリングするためのデータベースも運用しています。
参照:WIDE | World Inequality Database on Education
誰一人取り残さない教育のための学び合いの重要性
GEMレポートが指摘する通り、誰一人取り残さないインクルーシブ教育を実現するためには、教育分野だけでも広範な対応(多様なニーズを持った学習者に配慮した施設の拡充、教員研修、教材・試験・評価方法の改善など)が求められていますが、教育分野にとどまらず、財政・法律・福祉・保健など分野横断的に、多様な立場の人々を包摂するための連携や協調が必要となります。また、その社会や地域の歴史的背景・経済社会状況・伝統的価値観の違いによって、有効な方策や手段も異なるため、各国・地域それぞれ特有の状況に応じた配慮と検討が不可欠です。
そのためには、各国の政策決定者や教育関係者の間での情報交換や学び合いの継続が重要になります。上記の3つのデータベースは、図表等で分かりやすくデータを可視化しており、各国での政策議論の際の参考や教訓、学び合いのツールとして活用されることが期待されています。
最後に、GEMレポートの記述の中で特に目を引いたのが、全ての人を包摂するインクルーシブ教育の是非を論じることは、「奴隷制度やアパルトヘイトの廃止と同等の」必然性を持って議論されなければならないという指摘です。この例えを言い換えれば、特定の誰か(個人やグループ)を区別・排除することを前提として成り立っている仕組みは、教育制度であれ医療制度であれ、道義的に許されないものであり、結局、持続可能ではないということです。新型コロナウイルス危機の真っ只中にいる今だからこそ、改めて教育そのものが「万人のための」インクルーシブ教育でなければならない、ということを、GEMレポートを読んで痛感させられました。
次回の記事では、8月17日のパデコウェビナー開催を通じた、個人的な発見や所感を報告したいと思います。